北東亜細亜共同体論

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米価高騰問題への視座 (2025.03.02)

米価高騰問題への視座

米価の高騰問題が、世間の耳目を集めている。たしかに、これは重大問題だ。消費者は、諸物価の高騰のなかで、コメも高騰か、という怨嗟の声を上げている。その一方で、農業者は、ようやく昨年までの赤字が少し減った、といって一息を入れている。

高騰の原因は、流通の「目詰まり」にある、というのが政府の見解である。そうだろうか。

政府は、この見解のもとで、遅ればせながら3月の中旬に備蓄米を放出するという。僅か15万トンである。全国民の消費量の僅か8日分にすぎない。これは、最も拙劣な戦術である「戦力の逐次投入」ではないのか。

これで「目詰まり」は解消できるのか。政府には自信がない。だから、それ以後は、その後に考えるというのである。何とも、無責任で頼りないことである。

いったい、3月中旬以後は、どうなるのか。

政府には分からない。「相場は相場に聞け」というから、相場師に聞くしかない。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」である。相場師は、陰でアザ嗤っているだろう。

問題は、ここにある。政府が、米価は市場が決めるという政策を、金科玉条にしていることにある。この市場原理主義農政は、反国民的政策の悪い見本である。

この政策の結果が米価高騰である。コメが主食であることを考えたとき、日本の食糧安保は、いま危殆に瀕している。

ここで、改めて米価の高騰問題を、高い視座に立って考えてみよう。

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はじめに指摘しておこう。

政府は、これまで「米価は市場で決める」といって、市場不介入を金科玉条にしてきた。市場原理を至上とする市場原理主義農政である。そうして、これまで長い間、米価の下落を放置してきた。

しかし、その一方で減反を実質的に推進して、米価の下落を食い止めようとしてきた。つまり、市場に介入してきた。農業者の反発をおそれたからである。

これは、恥ずべき二枚舌農政である。市場不介入は、財界の圧力によるものである。市場介入は、農業者などの国民の圧力によるものである。

この二枚舌農政の矛盾が頂点に達したのが、今度の米価高騰である。

この二枚舌農政の汚名は、早急にそそがねばならない。

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さて、この問題を考えるのだが、かつて神谷慶治先生が言われたことがある。「価格は実体の影である」と。だから、影を論ずるのではなく、実体を論じなさい、と。そうしないと、本質論に突き刺されない、と。

いまの米価高騰を、価格問題として考えるのではなく、経済政策の問題として考えよ、ということだろう。

ここで、改めて言っておこう。

経済とは何か。それは、誰が何をどれだけ生産し、それを誰がどれだけ消費するか、という体制である。

そして、どのような体制に向かって、その体制をどのように構築するか、が経済政策である。

価格は、そこに至るまでの触媒にすぎない。

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いまの米価高騰に議論をみていると、価格問題として論じているだけである。影の議論しかしていない。なぜ高騰したのか、の本質的な議論がない。コメ政策のどこに問題があるのか、の議論がない。そうして右往左往している。

せいぜい、つぎの選挙に勝つには、どうすればいいか、という議論ばかりである。財界からの選挙資金はほしいし、農業者などの票もほしい、という魂胆を隠した議論である。まことに、見苦しいかぎりである。

どうすればいいか。

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はじめに行うべきことは、コメ政策の目的の設定である。

いま、世界は動乱のさなかにある。第3次世界大戦の遠雷も聞こえている。それなのに、日本の食糧自給率は僅か38%である。

これで独立が保てるのか。

また、いま世界の飢餓人口は7億人を超えている。全人口の約1割である。それなのに、日本は減反をしている。

こんなことが許されるのか。

こうしたなかでの米価高騰である。だが、政府のこの問題に対する視座は、あまりにも低い。食糧増産による食糧安保の視座がない。

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政府は、どんな視座に立って米価高騰の問題に立ち向かうべきか。

消費者の家計にとって、米価はたしかに高い。このままではコメ離れが進むだろう。そして、食糧自給率は、さらに下がるだろう。

生産者にとっては、いまの米価でも高くはない。生産農家の大部分を占める小規模農家からみると、ようやく積年の赤字を少し減らせる、という程度にすぎない。

どうすればいいか。

消費者米価は下げねばならない。だが、生産者米価は高いままでいいのだ。

その差額は、食糧安保のためだから、政府が負担すべきものである。

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こうしたコメ政策は、第二次世界大戦の戦中、戦後に、実際に行った政策である。

食糧安保が重要と考えるのなら、いまこそ、米価は市場で決める、などと言ってはいられない。実際、市場にコメを僅か15万トンとはいえ、供給して市場に介入しているのだから、二枚舌といわれる恥を無視して、堂々と市場に介入したらどうか。それは、消費者米価を下げるための介入だけでなく、生産者米価を上げるための介入である。二枚舌という恥は、後ですすげばいい。

平成の米価高騰のときは、政府が米屋さんの倉庫にあるコメを、全て店頭に積み上げるように行政指導をして、つまり、市場に介入して、事態を沈静化した。

自由経済といわれる経済の、中枢である日銀さえも、非常時には「買オペ」や「売オペ」を行って、市場に介入している。農政でも市場に介入するのは当然である。

ここまで高い視座でみたとき、消費者米価は下げて、生産者米価は上げる、という政策は、二枚舌農政という汚名から脱することができる。そうして、食糧安保農政へと昇華される。

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食糧安保農政の具体的な政策は、コメを粒食だけでなく、大量に粉食化して、主食としてのコメの復権をはかることである。

それに加えて、生きた備蓄(livestock=畜産)のための、大量のコメの飼料化である。そして、非常時にはそれを主食にする。

そのためには、コメの大増産が必要になる。それは、水田農業の力強い再生である。そうすれば、みどり豊かな農村の風景が復活するだろう。

この政策が実現すれば、石破 茂版の列島改造として、歴史に燦然と輝く金字塔になるだろう。

.    (2025.03.03 Jacom から転載)

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