一農政学徒の手記・・・知と情と
人生に終わりがあるなどと思ったことは、これまで一度もなかった。これは、私の人生だけではなく、人生一般についての思い、でもあった。だが、卒寿を目前に控えて、すこし変わった。
わが身の周りをみると、母の「かつ」は、ずいぶん前に人生を終えた。妻の「きよ子」は、17年前だった。この2人が、情において私に最も人だった、といっていい。
だが、ここには若干の補足が必要である。2人は、知においても、私にとって最も近い人だったのである。だから、ここに書くことは、必ずしも私事ではない。
私に最も近かった人が、あと2人いた。深澤文彦君と太田原高昭君である。情においても、知においても最も近い友人だった。4人とも、もう人生を終えた。もういない。
こうした周囲の状況のなかで、人生に終わりがあることを覚ったのかもしれない。それに加えて、最近は身体のあちこちが痛むようになった。この世の名残りというわけでは決してないが、ここでは2人の友人の情と知について、書き留めておきたいと思う。
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深澤君との出会いは、中学校に入ったときである。当時は終戦直後で、合併授業というものがあった。2つの組が1つの教室で授業を受ける、というものだった。そのとき、彼が私に腰掛けを半分掛けさせてくれた。そのことを今でも鮮明に覚えている。その時から、互いに面白い奴だ、と思うようになったようだ。そこには、互いに田舎の出身だったことが、かかわっていたように思う。
彼には物事の浅部と深部の区別がなかった。いつも深部から物事を考えていた。彼と私とでは、社会観が違うように見えたかもしれない。だがそれは、浅部のことであって、深部においては一致していた。だから、無駄な言い争いはなかった。
それは、共同体を基礎に据えた社会観であり、歴史観であった。そこには、幼いときから共同体のなかで培われた情が色濃くあった。そして、その上に知があった。その知で私の論説を、その深部から批判してくれていた。それを情の言葉で伝えてくれていた。
その後、彼は医学の道へ進んだので、私とは専門が異なることになった。だが、彼の批判は適切で、よくよく考えると痛烈なものだった。だから私は、いつも彼の深部からの批判を想定しながら、論説を書いていた。その彼は、もういない。
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太田原君とは北大以来の友人だった。私より若い助教授だったが、その頃すでに彼は協同組合論の分野での鋭い論客だった。そしてその後、第一人者といわれるようになった。
私は彼から多くのものを学んだ。それは、協同組合についてだけではなかった。彼の社会観についても多くを学んだ。これからも学びたいと思っていた。だが、急逝してしまった。
彼の社会観の基礎には社会主義があった。それは、私と最も近いところにある、と思っていた。しかし、この点について、あまり多くを話してこなかった。私にとって、彼に代わる人は、もういない。
話したかったことは、いくつかある。その主要な点は、協同組合における生産手段の所有形態についてである。社会主義は、生産手段の私有を認めない。それは、社会主義がよって立つ古典的な大原則である。
この唯物史観は、現実の協同組合にあわせて修正すべきものなのか。あるいは、協同組合は社会主義への歴史的移行の一過程と考えるべきなのか。
いま、私の頭のなかには、中国憲法にある集団所有制という形態が去来している。彼なら、これらを懇切丁寧に話してくれただろう。そこには知と情が溢れていた筈だ。
もう1つある。彼は「宇宙軍が地球に攻めてくるまで、世界政府はできない」といったことがある。これは、彼の国家観だろう。国家は労働を搾取するための暴力機関、という国家観と、どのように整合させているのか、いないのか。それとも、整合させることは無意味というのか。
いまは、彼の知を聞ことができない。この世を去って、来世で聞くしかないのだろうか。このことを、いま痛切に思っている。
. (2023.08.28・・・JAcom から転載)