中国の台頭、アメリカの後退。この大局面で様々な問題が今、世界で、アジアで、そして日本でも起きています。協調と対立が同時進行し、二度と戦争をしないと誓ったはずの日本が、「積極的平和主義」などという、とんでもない言葉のまやかしで、怪しげな方向に進みかけているように思います。
「日中友好、戦争反対」の声を、より一層大きくしていかなければなりません。
今号も大連特集です。大連とは、日本が中国を舞台として戦争をしたところであり、日本の中国侵略を学ぶ歴史の宝庫です。そして新中国を学ぶ宝庫でもあります。
今回の大連訪問は、「中国の農協・農村を見る」という事が目的の一つでした。東方暁さんのおかげで中国共産党のある農村支部を訪問することが出来、目的は達成されました。そこは、大連という大都会に野菜など供給している農村支部の様でした。十分理解できたわけでありませんが、改革途上「中国の農協」の一つの形態であるかもしれない、と感じました。
順次メルマガで大都会大連と農協・農村の報告をしていきたいと思っています。今回はその第一弾として、NPO中央区日中会員の日野原さんに、大連報告を書いて頂きました。
2015年7月15日 NPO法人中央区日中友好協会理事長 佐々木昭二
その時代、その場の都合で解釈されてきたことが、そのまま歴史的事実かのように認識されていることが少なくない。今回、大連と旅順でも、その思いを持った。日露戦争の旅順攻防戦についてである。
一つ目の疑問。203高地に登ると、さもここから砲撃したかのように大砲が置いてあるが、それは違うようだ。203高地は大砲による砲撃の観測地点として利用したものである。
二つ目の疑問。当時のロシア軍には機関銃があり、これに対して日本軍は兵士による突撃戦法で多くの戦死者を出したということになっているが、これは本当か。当時の日本軍は、戦争には近代兵器が必要だということをよく認識しており、当時、日本軍は世界の軍隊の水準以上の機関銃を装備していた。
しかし、コンクリートで固められた要塞を攻撃するのに、重い機関銃を持って移動するのは難しい。203高地の現場でみても分かるが、斜面は急勾配である。
機関銃は防護壁に囲まれた固定陣地において初めて威力を発揮する。要塞の攻防戦は大砲の威力と、兵士の消耗にどちらが耐えうるかによって決まる。
日露戦争から11年後の1915年、第1次大戦のフランスのベルダン要塞戦では仏、独の戦死者数は10か月の戦闘で70万人近くに達した。5か月に及んだ旅順攻防戦で、日本軍は13万人を投入し、1万6000人の戦死者を含む約6万人の死傷者を出した。数の問題ではないが、それだけ近代の要塞戦は人的損害が大きい。
203高地の案内文には、港までの距離や大砲の射程が書いてあるが、そこから砲撃したとは書いてはない。だが、そう思わせるような設定である。まさか、そう思っている日本人観光客の気分を壊さないように、中国側が配慮しているのではないと思うが、観光目的で、本当のことに触れないとしたら、後世に間違った歴史を伝える可能性がある。
ただ、大連にある「満州」時代の大和ホテルや横浜正金銀行、さらにはロシア人街などは、日本、あるいはソ連時代のロシアと、何度か国同士の対立がありながら、よく保護されている。2年前日中友好協会で訪れた大連の旧満鉄本社における歴史資料とその説明は、高校の歴史の復習を受けているいるようで、客観的だという印象を持った。
日本人観光客が相手だからだ、と言ってしまえばそれまでだが、これは、ある程度自国の歴史や文化に自信がなくては難しい。沖縄の基地について、歴史を見ず、自分に都合のよい解釈で発言して恥じない「文化人」や「政治家」はどうだろうか。
中央区日本中国友好協会 日野原信雄
写真:203高地から旅順港を望む
★編集後記
体に重く纏わり付く空気。額にじわりと滲む汗。梅雨です。
そんな梅雨も終わりに近づき、本格的な暑さと共に、夏へと移りつつあります。
何にしても陰気なのは嫌いで、ムシムシジメジメとしたこの梅雨も、とても好きにはなれません。
そんな梅雨の風物詩ともいえるこれまた嫌なヤツ、木造家屋の天敵シロアリ。彼らが発生しやすいのは、湿度が非常に高く、風が無く、雲が厚く、それでいて雨の降っていない日です。これに加え、夕方になって燕が低空を飛んでいると、その夜は「シロアリの夜」が確定となります。
私が田舎に住んでいた頃、雨期の一番の楽しみはシロアリの日にありました。シロアリとほぼ同じ条件で、蛍もよく発生するのです。シロアリが発生する時間帯になると、家族みんなで車に乗り、よく水路へ行き蛍を見ていました。
今住んでいる所は都心も都心で、シロアリもいなければ蛍もいません。豊かさとはなんでしょうか。少なくとも私は今、蛍の光が恋しいです。(白)