米価高騰問題への視座―再論
米価の高騰を抑えるための、政府備蓄米の放出が、ようやく今日から始動する。
とはいっても、入札が始まるだけで、実際に米屋さんの店頭に並ぶのは、今月下旬以後だという。しかも、その量は、全国民の消費量の僅か8日分にすぎない。その後は、元の木阿弥に戻るだろう。
あまりにも遅い、という批判がある。
「苗半作」という経験則がある。苗の良し悪しで、作柄が半分決まるという。遅いからといって、あわてて作ったのでは、良い苗は作れない。
その前に種子が必要である。今年用の種子は、もう売り切れているだろう。今すぐに増産を決めても、今年は、もう間に合わない。来年まで待つしかない。実際にコメが市場に出回るのは、来年産のコメで、早くても早期米の来年7月だろう。
それに加えて、放出量が、あまりにも少ない、という批判がある。
「戦力の逐次投入」という、キナ臭い戦争用語がある。これは最悪の愚策で、戦力を投入するなら、少しづつ投入するのではなく、一気に全力投入して、一気に敵を殲滅するのがいいという、あの忌まわしい戦争用語である。
政府は、いったい本気で米価を抑える気があるのか。世間は疑っている。国民は怒っている。
政府は怠けているからか。そうではない。何のために米価の高騰を抑えるのか、それが定まっていないからである。
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米価を、生産者米価と消費者米価とに分けて考えよう。ここでは、生産者米価は、販売単価に各種の助成金単価を加えたものにする。
大資本が中心の財界は、消費者米価も生産者米価も、ともに下げろと言っている。
農業者だけでなく、国民も、消費者米価は下げろ、と言っている。しかし、生産者米価は下げるな、と言っている。
つまり、国民と財界は、ともに消費者米価を下げろ、と言っている。この点では意見が同じである。
しかし、生産者米価については、意見が違う。国民は下げるな、と言っているが、財界は下げろ、と言っている。両者は、真向から対立している。
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なぜ、国民は、生産者米価を下げることに反対しているのか。
それは、市場原理に従って生産者米価が下がれば、生産者は生産を縮小する。その結果、食糧自給率が下がり、食糧安保が危うくなる。だから反対している。
つまり、食糧安保が重要だ、と考えている。
これに対して、なぜ、財界は生産者米価も下げろと言っているのか。
それは、市場原理主義に基づいて、生産者米価と消費者米価は、市場では一致するのが市場原理だ。だから、それに従わねばならない、と考えている。生産者が赤字になれば、生産を縮小するが、それでいいのだ、と考えている。それが市場原理だ、と言う。市場原理は、決して犯してはならない至上の原理だ、と言う。
ここには、食糧安保の考えが、全くない。
このように、食糧安保を重視するか、それとも軽視するか、が国民と財界の意見の分かれ目である。
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政党は、どうか。政党は、財界から政治献金がほしい。だが、食糧安保を軽視している。
農業者などの国民からは選挙での票が欲しい。だが、食糧安保を重視している。
このように、政党は食糧安保についての意見が、真向から違う両者の間で、板挟みになっている。
だから、政府は進退が窮って、備蓄米の放出に、右往左往している。
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ここで、あらためて言っておこう。日本は民主主義の国家である。政治を決める主権者は国民である。財界は、主権を持っていない。
政府は、主権者である国民から負託を受けているのだから、主権者である国民の、生産者米価は下げるな、という意見に忠実に従はねばならない。
主権者でない財界の意見は、主権者である国民の意見に反対なのだから、その意見に従ってはならない。
そうしなければ、日本は民主主義国ではなくなってしまう。
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主権者である国民の意見に従って、消費者米価を下げて、生産者米価を下げなければ、そこに差額が出る。この差額はどうするか。
それは、主権者である国民の意見なのだから、政治を負託された政府が、責任を持って差額を補填しなければならない。
主権者にとって、食糧安保は、いかなる事態になっても、主権者の生命を守る政策である。だから、食糧安保は、政府にとって、主権者に負託された、主権者の生命を守るための、それ程までに重要な政策なのである。
つまり、生産者米価と消費者米価との間の差額は、政府が責任をもって補填しなければならない。
この補填制度の構築は、政府の急務である。愚図愚図してはいられない。
最大野党の立憲党をはじめ、いくつかの野党は、補填制度の原案を持っている。
国会での与野党の熟議を期待している。
. (2025.03.10 JAcom から転載)