農政は市場原理主義と決別せよ
ウクライナ紛争を契機にして、食糧安保の議論が活発に行われている。前農基法を現農基法に改定してから20年たつので、再改定しようという時期に重なっている。この議論を基礎にして、20―30年後を見通した改定をしようという意欲的なものである。それだけに、期待は大きい。先日は、議論の中間とりまとめを公表した。
岸田文雄首相は、就任の当初から「新しい資本主義」といって、上段に構えている。そうした中での農政議論である。だから、農政も例外ではないだろう。農政でも上段に構えて、真正面から市場原理主義と対峙し、根本から刷新してもらいたい。
だがしかし、いまだに農政の基調は「需要に応じた生産」である。市場原理を至上とする農政である。食糧安保さえも需要に任せよう、というのである。食糧安保をも市場に任せ、市場原理に任せよう、というのである。無責任というしかない。
食糧安保とは、食糧の安全保障を縮めたものである。安全保障は、国家の最重要な責務である。それを放棄して市場に任せるというのだから、無責任というしかない。市場原理主義農政と非難されてもしかたがない。
市場原理主義とは、鈴木 宣弘教授がいうように、金ダケ・俺ダケ・今ダケ、という主義である。こんな主義に農政を任せていいのか。食糧安保を任せていいのか。
市場では、売り手も買い手も、互いに金だけで損得を考える。そして、俺だけの利益を考える。相手が不利益になれば、その分だけ俺の利益になる、とさえ考える。そのために、あらゆる手練手管を使う。そして、社会全体の利益は考えない。
また、目先きの今だけを考える。明日になれば、利益を得る機会がなくなると考える。だから、地球の温暖化などは、将来のこととして、頭の外へ追い出す。
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だからといって、市場は否定できるものではない。市場では誰もが自分の自由な判断で売買をする。誰もが自由に参加できるし、誰からも指図されない。つまり、自由で平等で民主的である。
だから、市場経済は交換経済が始まった太古の時代から、連綿と続いている。資本主義に固有のものではない。
社会主義の中国が、社会主義市場経済といいだしたとき、中国は社会主義の失敗を認め、資本主義に戻った、というあわて者がいた。だが、そうではない。戻ったというのなら、交換経済に戻った、というべきである。そうして嘲笑を浴びるべきである。それがいやなら、君子のように豹変し、中国の社会主義は、市場を以前より重視する政策に転換した、といえばいい。
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さて、市場には昔からいくつかの欠陥があった。
1つだけ例をあげると、道路である。道路を市場経済に組み込めば、道路を通るたびに通行人と地主とで通行料金について交渉することになる。しばく通行すると、地主が変わる。そうなると、また交渉することになる。この煩わしさを解決するために、社会が地主になって、通行料を無料にした。
これは、市場の失敗、といわれていて、経済学の教科書の入門編に書いてある。
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主題の食糧安保に戻ろう。食糧安保も市場に任せることはできない。市場原理主義とは対極の位置にある。つまり、金ダケの問題ではないし、俺ダケの問題でもない。今ダケの問題でもない。
この認識が、いまの食糧安保議論に決定的に欠けている。だから、「需要に応じた生産」などと呑気な議論に終始している。生産し過ぎないように、という議論に傾きすぎている。
安全保障のための生産だから、余ることは喜ぶべきことである。充分な備蓄があれば、十全な安全保障策になる。
だから、議論すべきことは、安全保障のための充分な備蓄を、どうして確保するかである。回転備蓄後の食糧は、みんなで知恵を出し合って、家畜の飼料などにすればいいのだ。
(2023.06.19 JAcom から転載)