食糧安保の国民的合意
食糧の安全保障政策について、野村哲郎農水大臣は「国民的合意に基づく農政」として推進する、といっている。ここで、「国民的合意」について、その意味するところを考えてみよう。
そして、食糧安保とは、そもそも何であるか。
いま、ウクライナ紛争によって、世界の食糧安保が深刻な事態になっている。食糧不足によって、食糧価格が暴騰している。そして逆に、食糧不足がウクライナ紛争に、重大な影響を及ぼしている。
こうした状況のなかで、日本でも食糧安保の議論が始まり、農基法の改定を目指している。
食糧安保とは、何を目的にした政策か。改めて考え、国民の合意を求めよう。
<<< 本文 >>>
ひるがえって歴史をみると、食糧不足を契機にした社会の混乱を、われわれは世界の各地で何度も経験してきた。フランスのマリー・アントワネット王妃は、革命の最中に「パンがなければケーキを食べればいいのに」と言って顰蹙をかった。食糧安保の認識を持っていなかったのだろう。そして、混乱を深めた。
日本はどうだったか。
戦国時代には、籠城戦というものがあった。城を作ってそこに立て籠もり、敵を迎え撃つという戦術である。このとき城内に充分な食糧の備えがなければ、長期戦になったとき城内の兵士は餓死するしかない。相手の敵はそれを狙って、兵糧攻めという長期の持久戦に持ち込むこともあった。
また、その後にあった打ち壊しや米騒動にみられるように、食糧不足を原因にした社会の混乱は、しばしば起きた。
このように、食糧は紛争や戦争における戦略物資で、第3の武器といわれるように、キナ臭いものである。
◇
さて食糧安保であるが、それは食糧を安定的に確保して供給する政策だ、という考えがある。
この考えによれば、食糧は備蓄を充分にしておけばいいとか、輸入食糧を安定的に確保しておけばいい、という考えになる。国内生産の安定的確保を、備蓄と輸入と同列に並べて考えている。これが、いままでの農基法である。
ここには、食糧の安全保障という考えはない。食料の安定確保でしかない。輸入の安定化は、平時の対策にすぎない。また、備蓄は目先きの対策にすぎない。
ここには、食糧は国家の存亡にかかわる戦略物資だ、という考えがない。安定供給の考えしかなく、その先の安全保障という考えはない。だから、食糧自給率が38%という危機的水準であることに対する緊迫観がない。
それだけでない。政府は市場原理主義を信奉しているようで、カネで計算すると食料自給率は66%だ、といっている。だから心配無用、といいたいのだろう。緊迫感は全くない。
◇
では、なぜ安定確保ではなく安全保障なのか。それは、前述した内外の歴史的経験に学べ、ということだが、すこし付け加えよう。
食糧の安全保障政策の目的は、国民の目先きの飢えの苦しみに耐えて生き延びる、というだけではない。前述のように、社会全体の安全保障に重大な役割りを持っている。その役割りを果たすことが目的である。
このように考えると、農業振興は第1次の目的であって、最終的な目的ではない。
◇
食糧の安全保障政策の最終目的は、社会全体の安全保障なのである。国家の独立にかかわる政策である。この認識がない食糧安保論は、農業という1つの業界の身勝手な振興論だ、と誤解されるだろう。
それでは、国民的合意は、得られないかもしれない。
だが、そんなことはない。その点を指摘しておこう。
食糧安保は、経済的弱者である農業者が、責任をもって担っている。その農業者がその責任を果たすために要求している食糧安保論にたいして、強者に虐げられている多くの国民は、連帯の意志を示すに違いない。ここに国民的合意の盤石な基盤がある。
(2023.06.05 JAcom から転載)