茅野甚治郎君の逝去の知らせを聞いてから、しばらく経つが、それは唐突の知らせだった。どうして、そんなに急いだのか。
ご家族、ご親族のお嘆きは、いかばかりかとお察し致し、衷心から謹んでお悔やみ申し上げます。
それにしても早すぎたのではないか。年長者の私にとって、若い友人の逝去が、これほどまでに寂しいことか、と身に沁みて分かった。
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茅野君との初めての出会いは、君が大学院生のころだ。私は崎浦誠治先生に呼ばれて北大へ赴任したころだった。当時、院生室には、それぞれ名前がついていて、君は「好戦部屋」というおどろおどろしい名前の部屋に巣くっていた。新米兵だから、入口に近い机を与えられていた。室長は趙錫辰君で、窓際の机に古参の鬼軍曹のようにして傲然と座り、あたりを睥睨していた。
私は新米の助教授だったが、好戦部屋に入ると見習将校のような待遇で、趙君の命令で茅野君が、お茶を飲ませてくれたりした。
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私は、3年ほど北大にいて、東大へ転任した。その後、間もなく茅野君が東京に近い宇大に招かれた。招いたのは野村浩士君だったが、優秀な若者が来てくれたといって、大変喜んでいた。私は、同じ崎浦教室の先輩として、誇らしく思っていた。
しばらくして、「米政策研究会」なるものを作ったが、茅野君は中心メンバーだった。宇大の戦場ヶ原演習林で合宿したこともあった。
当時、米の輸入自由化問題が社会の注目を集めていた。研究会は、この問題を主要な課題にした。新聞やテレビは連日のように、この問題を取り上げた。新聞やテレビの記者に対する茅野君の解説は極めて懇切かつ明快で、研究会のスポークスマンの役割も果たしてくれた。記者たちは、茅野君の誠実さや気安さという人柄を見て取っていたようだ。まことに優秀なスポークスマンだった。
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私は、僅か3年ほど北大にいたのだが、私の第2の故郷は札幌である。札幌は青春時代からの憧れの地だった。その後は、東京の飲み屋などで、あまり札幌の自慢話をするので、故郷は札幌か、と聞かれることがある。私は、そうだ、と答える。
だが、本当の故郷は前橋である。生まれてから18歳まで前橋で育った。中学・高校の友人たちとは、今でも消息を伝え合っている。庭球部にいたので、茅野君のテニスの腕前は評価できる。北軽井沢や信濃追分での合宿でみたが、プロ級である。その前橋の友人たちも、多くが他界した。
その他の期間は東京にいたのだが、東京が故郷だとは、なぜか思えない・
札幌は、私の第2の遅い青春を過ごした地である。私の周囲には、崎浦先生がいたし、茅野君、太田原高昭君など終生の友人もいた。図書室には山里澄江さんがいて、女王様のように振る舞っていた。亡妻も若かった。あのころ、人生に終わりがある、などとは思ってもいなかった。だが、みんな豊かな人生を終えた。今はただ、ご冥福を祈るばかりである。(森島 賢、2021.08.23)